深山さん アゴンマガジンでの間違いを正す
天照特別編集
阿含宗の機関紙である「アゴンマガジン」にて連載の仏典研究家「森川真澄」氏が色々な講義を展開して
居ますが、このたびアゴンマガジン50号にて間違った解説をされている所へ深山さんが掲示板にて解説を
されておられました。
とても勉強になる事項ですので、僭越ながら天照が編集し展開いたしました。
桐山氏と阿含宗の第五十四章からとアゴンマガジンからの転載と成っております。
どうぞ皆様もご覧頂き、考察されていただけたら幸いです。
阿含宗と桐山氏について 第五十四章より転載  http://jbbs.livedoor.jp/internet/3419/


851 :深山:2011/06/08(水) 23:50:05
「仏弟子たちの肖像 26」森川真澄、『アゴンマガジン』50号、54〜55頁

そこで、『阿含経』の中に業や宿業を断つことが記されているかどうかを調べて見 ると、はっ
きりと明記されています。『雑阿含経・尼健経』 には、
 「苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道跡聖諦に虜の如く知りて具足し、是の如き智慧心もて業を更に
造らず。宿業漸く己に断じ現に正法を得、諸の俄然を離れて時節を待たずして通達現 見し、自覚
智を生ず」とあり、また 『中阿含経・達梵行経』 には
 「汝等当に業を知り、業の因りて生ずる所を知り、業の報有るを知り、業の勝如を知り、業の
滅尽を知り、業滅の道を知るべし」とあり、さらに 『中阿含経・獅子吼経』 では、
 「すなはち因縁を断じて必ず般涅槃し」
とあります。後者二つだけならば現世での業であり、現世での因縁であると主張する人もいるかも
しれませんが、しかし、『雑阿含経・尼健経』には、はっきりと「宿業漸く己に断じ」と書かれております。

つまり過去世からの悪業を断じると明記されているわけですから、お釈迦さまの仏法によって現世での
業も、また宿業も断滅できることには疑いようがありません。


852 :深山:2011/06/08(水) 23:51:58
>「仏弟子たちの肖像 26」森川真澄、『アゴンマガジン』50号、54〜55頁

アゴン宗の機関誌『アゴンマガジン』の森川さんによれば、カルマ解脱や
宿業を断つ方法、つまり悪因縁を断つ方法を説いた阿含経があるというのです。
これまで批判側は、仏教にはそもそも因縁解脱など言葉も概念もないと指摘してきました。
釈尊の説く解脱とは漏尽解脱、つまり煩悩から解放されることです。
だから、阿含経に因縁切りや因縁解脱があるというなら出してみろと
いつも私などは批判していた。
それに対して、森川さんが具体的に三つの阿含経を提示して来ました。
信者さんたちはさぞ喜んでおられることでしょう。
てっきり、私は準シュダオンさんが勝利したとばかりに「ww」を連発しながら、
このネタをふってくれるのではないかと期待して待っていたのです。
出てきたら、自称・経典研究家の森川さんがいかにデタラメで、ゴマカシをしているかを
指摘して、しっかりとぬか喜びさせて、老人介護の一助としようと待っていた。
ところが、彼はくだらないタワゴトは書くのに、機関誌の新しい号が出ても
まだネタを振ってくれない。
役立たずの年寄り・・・あ、いや、お年寄りを待っているわけにはいかないので、
信者の皆さんにはしっかりと釈尊が業解脱(因縁解脱)など説いていないことを
説明して、森川さんへの反論といたしましょう。


853 :深山:2011/06/08(水) 23:56:38
アングリマーラ@カルマ解脱した?

森川さんが、カルマ解脱が書いてある経典として引用したのは、
『雑阿含経・尼健経』 『中阿含経・達梵行経』『中阿含経・獅子吼経』
の三つです。
その前に、森川さんはカルマ解脱の実例としてアングリマーラの件を出していますので、
これについて先に反論します。
アングリマーラはご存じのように、100人あるいは1000人の人を殺したと殺人鬼です。
出家後、彼は当然のことながら、人々から石を投げられるなど迫害にあい、
衣類はズタズタで血だらけになって托鉢から帰ってくることもあったという。
釈尊は、殺人の報いを受けているのだと指摘し、これを森川さんは、
それによってアングリマーラは殺人のカルマ(の報い)を消滅させたのだと解釈しています。
まったくの間違いです。
百人とも千人ともいわれる殺人のカルマを、石をぶつけられただけで
どうやって消し去るのだ?
釈尊はその報いを今も受けつつあると言っているだけで、
カルマを消し去ったなどとは言っていません。
なによりも、ここからがよく信者さんたちに着目してほしいのですが、
アングリマーラは解脱してから、この迫害に遭っているのですよ。
殺人という悪業の報いを切って解脱したのなら、その後でさらに報いを
受けるのはおかしくないか。


854 :深山:2011/06/08(水) 23:59:15
アングリマーラ@解脱してから報いを受ける?

アングリマーラの話は中阿含経に出てきます。
現代語訳で読める本としては、
『原始仏典 6』(春秋社)、205頁〜
があります。
これによれば、「生は尽きた。梵行は完成した・・」(212頁)と解脱を自覚した後で、
アングリマーラは托鉢に出かけて、迫害に遭ったのです。
カルマを断ち切って解脱するなら、解脱した後、そのカルマの
報いを受けたことになり、それっておかしくありませんか。
カルマが切れていないじゃないか。
カルマが切れていないにもかかわらず、彼はすでに解脱者だったのです。
森川さんの言うことと矛盾していることに気が付いてください。
森川さんは迫害に遭うなどしてカルマを消し去ったから解脱して、
地獄に堕ちることもなかったと主張している。
だが、経典ではそんなことは書いておらず、彼は解脱してもなお、
まだ殺人という悪業のカルマは持ったままだったのです。
消えていません。
そんなことは当たり前で、繰り返すが、百人も千人も殺した悪業の報いは、
毎日血だらけになったって消えるものではありません。
彼は迫害によってその報いのほんの一部を受けただけで、
実際には、入滅するまで悪業を持ったままだった。


855 :深山:2011/06/09(木) 00:02:07
アングリマーラ@彼の解脱は漏尽解脱

ではどうして解脱できたのか。
煩悩を捨ててしまったからです。
殺人という悪業の借金を返したから解脱したのではなく、借金はそのままで
ほとんど返してさえもいないが、煩悩を断ち切ったから解脱したのです。
しかし、悪業の報いそのものは残ったままだから、解脱しても迫害されたのは
不思議なことではありません。
迫害に遭うことでカルマを消し去って解脱したという森川説では
現実の経典の内容と矛盾します。
釈尊は煩悩を切ることを説いたことはあっても、宿業などカルマを切るなんて
説いていないのだから、カルマは残っているが、煩悩を断ちきることで
解脱したと普通に解釈すれば、何の矛盾もない。
森川さんの説明はこんなふうに、アゴン宗に都合良く解説するから、
一見、もっともらしいが、丁寧に検証すると矛盾が出てくる。
つまり嘘です。
信者さんたちが騙されている彼のゴマカシや嘘は他にもある。


856 :深山:2011/06/09(木) 00:06:58
アングリマーラ@運命転換など仏教にはない

「・・・地獄に行くはずだった運命を完全に転換して・・・・」
(『アゴンマガジン』50号、54頁)

森川さんによれば、アングリマーラは殺人の悪業で地獄に堕ちるはずだったが、
修行によって解脱して地獄には行かなかったのだから、運命が変わったという説です。
準シュダオンさんが同じようなことを言っていた。
信者さんたちはどう思いますか。
これは桐山さん、森川さんや準シュダオンさんたちのゴマカシなのですよ。
ゴマカシとは、運命という言葉をいきなり使っている点です。
まるで運命というものがあり、それはすでに実証され、釈尊をはじめ、
多くの人が認めているかのような前提で書いている。
それがゴマカシだというのです。
運命が存在するといったい誰が証明したのだ?
信者さんたちが悪因縁などの定められた運命があると信じるのは自由だが、
それは一般社会では通用しない概念です。
ましてや、仏教には運命なんて言葉も概念も出てきません。
たとえば、阿含経の内容を「神の愛だ」という解説したらどうですか。
信者さんたちも馬鹿馬鹿しいと思うはずです。
なぜなら、仏教にキリスト教を持ち込んでいるからです。
森川さんのしていることはこれと同じで、桐山教に染まっているから、
仏教にはない概念を、まるで当然あるかのように勝手に持ち出して、解説している。


857 :深山:2011/06/09(木) 00:09:48
アングリマーラ@仏教には運命論はない

桐山さんは「宿命は変えられないが、運命は変えられる」などと
言うものだから、信者さんたちは運命が何であるかも知らないのに、
運命というものがあり、それは変えられる何かなのだと漠然と信じている。
実は森川さんもその一人だから、唐突に運命などという言葉が出てくる。
経典研究家を自称する者が運命などと言い出したら、オシマイです。
そもそも運命があるかどうかすらわからないのですよ。
運命を議論するのは、火星人の足の数を議論するようなもので、
火星人がいることすらわからないのに、その足を議論して何の意味があるのだ?
信者さんたちは運命(火星人)があるかのように思い込み、
運命が変わった(足が何本)などと議論している。
運命が変わったという森川さんの主張は、「タコの足は8本でイカは10本だから、
火星人は9本である」と言っているようなもので、何の根拠も論理性もありません。
釈尊は運命など議論したこともないのに、そこに勝手に運命を持ち出して何をしたいのだ?
運命などと言い出したら、アングリマーラは人を殺すのも運命であり、
お釈迦様と会うのが運命であり、解脱するのも運命であった、という説だって
成り立ってしまうのですよ。
しかし、こんな説に何の意味があるのだ?
森川さんは何の脈絡もなく、突然運命を持ち出して、いかにもアゴン宗の教義が
正しいかのように見せかけているだけです。
桐山さんと同じゴマカシの手法であり、手品みたいなものであり、
こういう小手先の手法に騙されないことです。

859 :深山:2011/06/09(木) 00:14:29
達梵行経@業滅が業解脱?

森川さんが>>852でカルマ解脱が書いてある経典として引用したのは、
『雑阿含経・尼健経』 『中阿含経・達梵行経』『中阿含経・獅子吼経』
の三つで、この中で一番彼が根拠としたいのは尼健経のようですから
これを最後にして、まず『中阿含経・達梵行経』から検証しましょう。

 「汝等当に業を知り、業の因りて生ずる所を知り、業の報有るを知り、業の勝如を知り、業の
滅尽を知り、業滅の道を知るべし」

森川さんが引用した文章です。
これが釈尊が説いた業解脱の根拠だというのです。
信者さんたちは「業滅の道」あたりを見て、これこそ業解脱(因縁解脱)を
説いたものだと歓喜奉行するでしょう。
だが、普通の仏教の知識を持っているなら、この文章が業解脱などという
特別な解脱を説いたとは読みません。
信者さんたちが信じている業と、釈尊のいう業とはだいぶん意味が違うからです。
信者さんたちは桐山さんの説明を信じて、業を、前世で為した行為の報いを
伝える目に見えない神秘的な力だと信じている。
だが、釈尊が業という言葉を用いる時のほとんどの意味は「行為」です。
信者さんたちも知っている身口意の三業というのがそれです。
身体での行い、言葉による行い、心の中で考えたこと、これらを業というのです。
阿含経で釈尊が業という言葉を用いたとき、ほとんどすべてが、
我々が確認できる身体と言葉と心の行為を表しており、アゴン宗で用いるような、
目に見えない神秘的な力という意味はありません。
私が言っているのではなく、仏教ではそういう意味なのです。


860 :深山:2011/06/09(木) 00:18:02
達梵行経@業とは行為という意味

「業は,行為のあり方により,身体にかかわる行為を<身業(しんごう)>,
言語にかかわる行為を<口業(くごう)>または<語業(ごごう)>,
意思にかかわる行為を<意業(いごう)>といって三業に区別されるが,・・・」
(岩波仏教辞典)

信者さんたちが信じている業と意味が違うことに気が付いてください。
釈尊は普通の人間が確認できないような内容は極力排除して説明した。
だから、目に見えず誰も確認できない神秘的な力としての業など説きません。
こういう業の意味を理解した上で、達梵行経を読めば、
何の不思議もない、普通の仏教の教法です。
現代語に訳するから、次のような意味です。

「自分の行為を知り、行為の何が元(煩悩のこと)となっているのかを知り、
行為には報いがあることを知り、逃れることはできないことを知り、
悪業を為さないことを知り、八正道を知るべきだ」

ごらんのように、前世から伝わる神秘力の業を消滅させるなどという話ではなく、
行いを慎み、煩悩を出さないようにすることで解脱するという意味です。
前世なんてなんにも関係ない。
森川さんは、業を勝手に前世の業と報いという解釈を入れたのです。
だが、元々の釈尊の使う業にはそんな意味はありませんから、ゴマカシです。
ゴマカシというと言葉がきついようなら、森川さんの嘘です。
「後者二つだけならば現世での業であり、現世での因縁であると主張する人が
いるかもしれませんが・・・」(アゴンマガジン、50号、55頁)
などと逃げ道まで準備している。
つまり、この人は阿含経での業とは行為だと百も承知で嘘を書いたのです。


861 :深山:2011/06/09(木) 00:22:09
達梵行経@業滅は八正道

私が>>860の現代語訳に八正道という原文にない言葉を入れたのは、
この経典の他の部分にあるからです。
達梵行経で釈尊は、業滅をするには八正道だと説いている。

「云何が業滅の道を知るや。謂く八支聖道なり。」
(『國訳一切経 阿含部5』184頁)

これを森川さんが無視しているのはおかしい。
桐山さんは業を切るには、四神足を修行しないとダメで、
八正道などただの教えにすぎないと唾棄しているのです。
業滅のために、釈尊は八正道(八支聖道)だと説き、桐山さんは八正道では
ダメだと説いている。
両者の説はまったく逆です。
森川さんが桐山さんの説明と釈尊の説明が正反対であることに気が付かないはずはない。
これを素知らぬふりをして、達梵行経など信者は誰も読まないだろうと
ばかりに、八正道の部分は引用せず、口をぬぐって素知らぬ顔をして、
まるで釈尊が業解脱を説いたかのように見せかけたのです。


862 :深山:2011/06/09(木) 00:27:19
餓鬼事経@釈迦直説ではない

森川さんがズルイと思うのは、他の経典でもそうだが、アゴン宗に都合のよい
解釈ができる文章の一部だけを取り上げて、経典全体として何を説いているのかを
読者に伝えようとしていないことです。
その一つが、彼がアゴン宗を擁護するに用いた餓鬼事経です。
餓鬼事経を引用して、まるで釈尊が死者の成仏を説いたかのように書いた。
餓鬼事経はたしかに阿含経の一つです。
しかし、信者さんたちも桐山さんから習っているように、
阿含経のすべてがそのまま釈尊が説いたというのは間違いです。
桐山さんはこれを18金にたとえた。
阿含経は純金ではないが、金が入っているという意味です。
逆に言うなら、混ぜ物があるのです。
その混ぜ物の典型が餓鬼事経です。
餓鬼事経の記述内容や登場人物から、学者がはっきりと
後世に作られたものだと断定しているのです。
彼が参考文献として出して南伝大蔵経の餓鬼事経の解説にそのことが書いてある。


863 :深山:2011/06/09(木) 00:31:32
餓鬼事経@後世の偽経典

「本書は天宮事経(南伝蔵巻第24)と姉妹編をなすものにて、巴利聖典文学中新しき
部に属する。即ち第4品第3節に現れるピンガラ王は護法の註釈に従へば、仏滅
後二百年頃スラッタを統治していた。従て此の事実等より察するも、仏滅後かなり
隔たった後の時代に本書の成立を置くこと得る。天上、地獄の思想は、涅槃の思想は
共に、原始仏教時代に併存したものとするも、かかる詩集を遠く古代に遡らしめるこ
とは困難である。」(南伝大蔵経、25巻、2頁、宮田菱道)

学者は餓鬼事経のことを「詩集」と笑っています。
餓鬼事経に出てくるピンガラ王は、釈尊が亡くなった後の二百年くらい後の人だというのです。
その人が登場する経典なのに、どういう訳かサーリプッタが出てくる。
サーリプッタは釈尊よりも前に亡くなった人ですから、ましてや二百年後に
生きていたはずはない。
餓鬼事経は詩集であり、ただの小説にすぎない。
こんな経典が本物というなら、大乗経典はすべて本物になってしまう。
こんな経典を元にして森川さんは死者の供養や成仏を釈尊が
説いたかのような根拠にしている。
ここまで来ると、彼の良識が問われる。
信者さんたちに森川さんの文章を読む時によおく覚えておいて欲しいのは、
こういうインチキを平気で書く人だという点です。
知らないで書いたのではなく、百も承知で書いているのです。

865 :深山:2011/06/09(木) 00:33:26
獅子吼経@ついに因縁解脱を発見か!?

森川さんが業解脱の根拠とした二番目の経典です。

 「すなはち因縁を断じて必ず般涅槃し」(獅子吼経)

すばらしいではありませんか。
因縁を切れば涅槃にいたるというのだから、因縁解脱です!
因縁解脱がそのまま出ている経典がようやく発見された!!
これで批判側から「因縁解脱と書いてある阿含経を出してみせろ」と
言われずに済むのです。
信者さんたちは大喜びしなければならない。
ところが、森川さんは意外に冷静で、
「後者二つだけならば現世での業であり、現世での因縁であると主張する人が
いるかもしれませんが・・・」(アゴンマガジン、50号、55頁)
などと、まるで反撃を恐れて、自分だけはいつでも逃げられるように準備している
かのような文章があります。
もちろん、ゴマカシだから、逃げ足を使っているのです。
なぜなら、獅子吼経でいう因縁とは、信者さんたちが
信じているような悪因縁(=運命)やカルマなどという意味ではないからです。
因縁の意味が違うのだから、因縁解脱やカルマ解脱の証拠にはならない。


866 :深山:2011/06/09(木) 00:35:56
獅子吼経@因縁の意味が違う

信者さんたちは桐山さんから、因縁とは運命の星のことだと習っている。
前世で作った悪業の報いことを因縁と呼んでいる。
仏教では、それを宿業と言います。
だから、森川さんも、宿業を切ると説いた阿含経を探したのです。
桐山さんは前世からの業の報い(宿業)などを断ち切ることを因縁切りといい、
現世での業を含めてすべて断ち切れば因縁解脱として仏陀になるのだと説いている。
つまり、アゴン宗では「因縁=宿業」という意味で用いている。
だが、まず信者さんたちに知ってほしいのは、仏教の因縁には
宿業や運命の星などという意味はないということです。
仏教では、因縁と宿業(あるいは業)はまったく別な概念です。
信者さんたちの信じている運命という意味の因縁は明治以降の新興宗教の教祖が
作った概念で、桐山さんが真似をした。

「仏教では,因と縁,または因も縁も同じ意味(因即縁)ということで
一つに結びつけたもの.広くは原因一般をさす.」(岩波仏教辞典)

ごらんのように、因縁とは原因くらいの意味なのです。


867 :深山:2011/06/09(木) 00:38:40
獅子吼経@縁起と宿業は別

釈尊の説く因縁とは因縁生起を約したもので、縁起のことです。
縁起とは、原因が結果を生み、その結果がまた次の結果の原因となるという
一連の流れのことを言います。
縁起(=因縁)とは「A→B→C→D→・・・」という連鎖を表しています。
縁起には宿業とか運命の星などという意味はありません。
両者はまったく別な概念です。
だから 「すなはち因縁を断じて必ず般涅槃し」(獅子吼経)を見て、
アゴン宗のいう因縁解脱だと喜ぶのは、ただの無知です。
この文章には「宿業を断じて」「運命の星を断じて」などという意味はありません。
この文章は「縁起を用いた考察で得られた原因を断じて涅槃を得る」
というくらいの意味です。
では、縁起を用いた考察で得られた原因とは何でしょうか。
無明という煩悩です、などというと、それは深山の解釈だという反論が
来るでしょうが、そうではなく、この経典にちゃんと書いてあるのです。
森川さんは、毎度のことながら、その部分を省略して、というか、
ごまかして隠して、自説に都合の良い文章だけを切り取ってきたのです。


868 :深山:2011/06/09(木) 00:43:11
獅子吼経@森川さんのすり替え

獅子吼経のこの部分で、釈尊は十二縁起(十二因縁)に相当する説明をしています。
十二因縁とは、苦である我々の人生や輪廻の原因とは何なのかを
縁起の手法で考察したものです。
この経典では、十二因縁の九番目に相当する、取著(執着)から逆にさかのぼり、
最終的に無明こそが苦のすべての元となっていると結論づけます。
まず、この時点で皆さんに驚いてほしいのは、無明という煩悩を断てと
説いている経典なのに、森川さんは宿業を断つ話にすり替えている点です。
森川さんが引用した直前に、

「若し比丘ありて無明已に盡きて・・・」(『國訳一切経 阿含部5』107頁)

とあり、釈尊は無明(煩悩)を断てば解脱するのだと直前に説いているのです。
それを彼は百も承知で、一部分だけを引用し、その直前すらも隠し、
あたかも宿業を断って解脱する話であるかのように、すり替えた。
悪質さに驚きませんか。
森川さんから「経典まで調べるような信者はいないだろうから、
ごまかしてもわかるまい」と信者さんたちは完全になめられている。


869 :深山:2011/06/09(木) 00:45:25
獅子吼経@パーリ仏典には出てこない
 
「すなはち因縁を断じて必ず般涅槃し」(獅子吼経)
この文章は、その直前までの十二因縁で説明した無明などの
煩悩を断ち切ることを説いたのです。
「無明→行→識→・・・→取」という流れ(縁起)を、
無明を断つから、行が断たれ、識が断たれ、やがて取も断たれるという縁起を、
まとめて縁起を断つ、因縁を断つと表現したのです。
個人的な意見を申し上げるなら、この漢訳は不適当です。
「すなわち因縁(縁起)で示した無明から取までを断じて・・・」と
書くべきところを省略して、因縁を断つという奇妙な表現になってしまったのです。
私の個人的な意見と書いたが、この経典の南伝のパーリ仏典を見れば
漢訳経典の翻訳の不備は明かです。

「比丘が無明を捨てて、明智が生じた時、かれは無明に染まることなく明智が生じるので、
決して欲望への取著をとらず・・・・・(中略)・・悩まないので、もう各自に
よく静められる。生まれは消滅され、浄らかな修行は終わり、
するべきことはされ、今後この状態に戻ることはない、と知る。」
(『原始仏典 4』春秋社、164頁)

パーリ仏典のほうでは、上記ように、無明を捨てることから取著を捨てるまでを
縁起を用いて説き、その結果として解脱すると明瞭に説いています。
因縁解脱はもちろんのこと、宿業解脱、業解脱も出てきません。
無明をなくすことで解脱するのだという漏尽解脱が述べられているだけです。


870 :深山:2011/06/09(木) 00:47:09
尼健経@宿業を断つと解脱する?

 「苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道跡聖諦に虜の如く知りて具足し、是の如き智慧心もて業を更に
造らず。宿業漸く己に断じ現に正法を得、諸の俄然を離れて時節を待たずして通達現 見し、自覚
智を生ず」

いよいよ、森川さんがこれこそが決定的な証拠だという尼健経です。
尼健経のケンは正確には健ではなく、あて字ですが、これを使うことにします。
「宿業漸く己に断じ」とあります。
宿業とは前世などで為した行為の報いを指しますから、
まさにアゴン宗のいう悪因縁に相当します。
それをすでに断じたというのですから、決定的な証拠です。
おお、ついにアゴン宗の因縁解脱の証拠が見つかった、と喜ぶ前に、
もう少し詳しく見てみましょう。
なにせ、森川さんは、これまでの経典の引用の仕方を見てもわかるように、
自分に都合の良い文章のみを切り取って、前後を隠して、
全体の意味を歪めるのが得意な人ですから、信用がおけません。


871 :深山:2011/06/09(木) 00:51:25
尼健経@宿業解脱はジャイナ教の教え

奇妙なのは、なぜここで突然、宿業という言葉が出てきたのかという点です。
桐山さんが引用した経典にも出てきたことがない。
皆さんも奇妙だと思いませんか。
実は、森川さんが隠したいのはまずその点なのです。
読者の中には、尼健経という題名からして、気が付いた方がいるでしょう。
尼健とはジャイナ教のことです。
釈尊と同時代の宗教で、教祖のニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)
の名前の音訳が尼健です。
ジャイナ教の教法をご存じの方は、ここまでの説明だけでも、
なぜ宿業が出てきたのか、なんとなく予想がついたでしょう。
ジャイナ教の解脱とは、まさにカルマを断ち切ることを指すからです。
解脱と言っても、釈尊のいう解脱と、ジャイナ教の解脱では定義が違います。
業解脱を説いたという点では、アゴン宗はジャイナ教に近い。
尼健経はジャイナ教の弟子がアーナンダに、ジャイナ教の修行と解脱を
説明して、釈尊はどう思っているか、と質問することから始まります。
つまり、この経典で宿業が出てきたのは、アーナンダが宿業を説いたからではなく、
ジャイナ教の信者がカルマ解脱を説いたからです。
森川さんはまるで仏教の説明の中から、宿業解脱を説いたかのような
印象を与えたいのだろうが、宿業を教義とするジャイナ教の信者の質問だから、
宿業という言葉が出てきて、アーナンダはそのまま用いて、仏教の教法を説いたのです。


872 :深山:2011/06/09(木) 00:53:32
尼健経@釈尊は相手の言葉を用いて説く

信者さんたちによく知ってほしいのは、釈尊もアーナンダも、相手の主張が
間違っていても、頭からは否定せず、むしろ、彼ら用いた言葉や概念を使い、
教法を説くという手法をしばしば使うことです。
その典型が、「真のバラモン」という使い方です。
バラモンであることを誇る者に対して、階級としてのバラモンそのものを否定せず、
真のバラモンとはどういう者かという説き方をしています。
真のバラモンと釈尊が説いたからといって、彼がバラモンというカーストを
認めたわけではありません。
バラモンというカーストを認めたのではなく、相手の理解しやすい言葉を用いて、
仏教の教法を示したのです。
信者さんたちが知っている阿含経でいうと、意生身があります。
『雑阿合経・身命経』で婆蹉種出家が、死後の存在としての意生身という言葉を
用いて質問したから、釈尊は意生身という言葉をそのまま用いたにすぎません。
桐山さんはこれをまるで釈尊が死後の霊魂を意生身と表現したかのように
書いていたが、あの経典を読めばわかるように、婆蹉種出家の表現をそのまま返しただけで、
婆蹉種出家が信じている意生身の存在そのものを認めたのではありません。


873 :深山:2011/06/09(木) 00:56:13
尼健経@宿業解脱はジャイナ教

尼健経の場合も同様で、質問者がジャイナ教で、頭の中がカルマ解脱で
出来ており、カルマを断ち切らないと解脱しないと信じ込んでいる。
その彼に、カルマ解脱ではなく、漏尽解脱こそが本当の解脱だと
説明するのに、彼の用いた言葉をそのまま使い、意味を変えて
釈尊の教法を示したのです。

ジャイナ教の信者「苦行を行ずるが故に悉く能く之を吐き、身業作さざれば橋梁を断裁し・・」
アーナンダ「受持すること是の如くなれば浄戒を具足して宿業漸く吐かれ・・・」
(『國訳一切経 阿含部2』149頁)

上記の前者はジャイナ教の信者、後者はアーナンダの主張です。
アーナンダがジャイナ教の信者の言葉をそのまま真似して使っていることのがわかります。
そしてアーナンダか言いたいのは、宿業を吐くことではなく、
解脱のためにはジャイナ教のような苦行ではなく、浄戒を守り、四禅、四諦を
理解し実践することであると説いています。


874 :深山:2011/06/09(木) 01:00:12
尼健経@宿業ではなく解脱の説明をした

経典全体を読めば、宿業を断ち切るかどうかの話をしているのではなく、
何によってどのように解脱するのか、という議論をしているのです。
アーナンダは巧みに相手の言葉を用いて戒律、四禅、四諦こそが
釈尊の説いた解脱の道だと説いた。
アーナンダは相手の言葉を用いて説いたのに、その「宿業漸く己に断じ」だけを
取り上げて、宿業解脱を説いたなどという主張は、経典全体の意味をまったく
無視した解釈です。
そんな解釈が成り立つなら、釈尊はバラモンというカーストを最高のものと
認めたことになってしまいます。
釈尊やアーナンダは業を、ジャイナ教信者が用いたような
前世からの神秘力などという意味にはほとんど使いません。
アーナンダはジャイナ教信者の使った業の意味を百も承知で、
それを行為という狭い範囲の意味に使い、仏教の教法を説明したのです。
その事は、漢訳経典よりも、南伝のパーリ仏典のほうが
より明瞭に表現されています。


875 :深山:2011/06/09(木) 01:03:30
尼健経@アーナンダが説いたのは四正勤

ジャイナ教信者「・・彼は苦行に由って過去世の諸業の吐出を施設し・・・」
アーナンダ「彼は新業を造らず、又故業は随って受けてはき出す。」
(『南伝大蔵経 17』361頁)

ジャイナ教の信者は「過去世の諸業」と表現して、
前世での行為の報いを苦行によって消すのだと主張しています。
だが、アーナンダは新業に対比させて「故業」というのだから、
これは過去世ではなく、過去の行為のことをさしているにすぎません。
新業だけが行為という意味で、故業が見えない前世からの神秘力だという解釈は
おかしいから、故業とは、自分の人生の過去の行為のことです。
アーナンダは業を目に見えない神秘的な力という意味で用いているのではなく、
行為という意味で用いているのです。
ジャイナ教信者は「前世の業を苦行で切る」と主張しているに対して、
アーナンダは「新しい悪い行為を為さず、過去の悪い行為も断つ」と言っている。
ジャイナ教信者が使った言葉を用いているが、違う意味に用いているのです。
アーナンダの主張はどこかで聞いた内容であることに気が付いてください。
四正勤です。
1)すでに起こっている悪を断つ努力.
2)いまだ生じていない悪は,これを起こさない努力.
3)いまだ生じていない善を起こす努力.
4)すでに起こっている善は,これを大きくする努力
この四つの項目の内の、1と2そのものです。
言うまでもなく、1〜4には前世など含まれません。
なぜなら、普通の人は前世でしたことなんて記憶にないからです。
アーナンダが説いたこととは、前世の悪業の報いを消滅させるなどという
荒唐無稽な話ではなく、現実の我々の行いを正す四正勤そのもののです。


876 :深山:2011/06/09(木) 01:06:49
大目連@宿業は切れないと本人が述べている

以上のように、森川さんが宿業解脱、因縁解脱の根拠として
説いたという三つの阿含経には何の根拠もないことを示しました。
文章の一部分だけを引用して、自分に都合の良いように解釈を
加えているにすぎません。
仏教には宿業解脱、カルマ解脱、因縁解脱などありません。
森川さんが今回取り上げている大目連の死が何よりもそれを示しています。
私があきれるのが、大目連その人が自分が死ぬ理由をちゃんと説明しているのに、
これを森川さんごときが否定している点です。
森川さん自身が次のように大目連の説明を現代語に訳しています。

「私が過去になした行いはきわめて深く重く、必ずその報いを受けて避けることは
できないのです」(『アゴンマガジン』50号、53頁)

これが大目連が説明した暴漢に襲われ、亡くなる理由です。
この文章の意味は誰が読んでも同じです。
彼の過去世で為した悪業の報いから逃れることはできないと言っているのです。
「前世からの業の報いは切れない」、信者さんたちにわかりやすい言葉で言えば、
「悪因縁は切れない」と言っているのです。


877 :深山:2011/06/09(木) 01:09:50
大目連@悪因縁は切れないと大目連が言っている

これほど明瞭に宿業を避けることができないと解脱者本人が言っている。
信者さんたちも良くこの大目連の言葉を読んでみてください。
しかも、宿業が避けられないことは別に不思議でもなんでもない。
釈尊だって食あたりが原因で亡くなっている。
宿業などの業を切って自由自在な境涯になった人が、なんで食あたりで
苦痛に耐えながら亡くなるのですか。
だが、仏教では大目連が殺されたことも、釈尊が食あたりで亡くなったことも
なんら矛盾しない。
なぜなら、業解脱、宿業解脱、運命転換なんて説いていないからです。
煩悩をいくら切っても、宿業を切ることはできない。
早いか遅いかは別として、「必ずその報いを受け」るのです。
そしてまた、これが仏教の考えです。
神通力第一であり、前世や霊的な世界を透視する力を持っている大目連が、
業の報いを避けることはできないと断定しているだから、
その言葉を素直に受け入れればいいではありませんか。
ところが、凡夫にすぎない森川さんは如来が発した言葉を否定して、
次のような勝手解釈をしている。


878 :深山:2011/06/09(木) 01:11:36
大目連@仏教はキリスト教でない

「要するに殉教です」(『アゴンマガジン』50号、55頁)

大目連は殉教???!!
信者さんたちの中には殉教などと聞くと、いかにももっともらしいと
納得する人たちがいるでしょう。
だが、それはあまりに無知です。
桐山さんから祈りやメシアなど、キリスト教的な考えを持ち込まれているから、
殉教に違和感がないのだろうが、仏教には殉教なんてありません。
大目連が殉教なら、食あたりで亡くなった釈尊も、自殺した二人の比丘も殉教か?
彼らはどんな死に方をしようが全員が解脱者です。
よおく覚えておいてほしいから、もう一度言うが、仏教に殉教なんてない。
阿含経のどこに殉教の思想がある?
いつ釈尊がそんなタワケを説いた?
命をかけても布教しろなんて釈尊は言っていない。
そればかりか、西の方に布教しに行こうとした弟子に、
西の人たちは凶暴だと聞いていると、むしろ押しとどめたくらいです。
仏教に関係のないキリスト教の思想を勝手に入れるのはやめませんか。
外道の信者にすぎない森川さんごときが、如来に向かってあれこれと
勝手な空想を並べるのはやめるべきです。


879 :深山:2011/06/09(木) 01:23:29
「お釈迦様の仏法とは煩悩を断つことが目的で、過去の悪業を切ることではないのだ」
(『アゴンマガジン』50号、54頁)

森川さんは上記の文章のような誤解をする人が出てくるのではないかと書いている。
私はこれを読んだとき、おもわず、ゴンネンとミショウしてしまった。
つまり、こういう反論を彼が予想して書いたということは、
彼自身がネット批判を読んで、釈尊は漏尽解脱しか説いていないとようやく
気が付いたか、または、信者の中から、こういう質問や意見が
出ているか、おそらくどちらかでしょう。
ここでの十年にも及ぶ批判で、無視することができないほどになったのです。
読んでいる信者さんたちも職員や先達に質問してみるといい。
「阿含経のどこに因縁解脱という言葉や概念が出てくるのですか。
森川さんが示した根拠は三つとも論破されていました」と言ってみてください。
あるいは森川さん本人をご存じの方は、ぜひ、批判側が反論を書いていたと伝えてください。
また、森川さんに一方的な自己流の解釈を、信者の無知につけ込んで
押し売りするのではなく、本当に正しいと思うなら、ここに出てきて
議論をしてほしいと批判側が言っていたと伝えてください。